うんこが外交文書だった
秋田を「日本の果て」だと思っている人は、地図を90度回してみてほしい。日本海の側から見ると、ここは表玄関になる。
その証拠が、トイレから出てきた。
奈良時代の水洗トイレ
秋田市の秋田城跡から、奈良時代後半の水洗トイレの跡が見つかっている。
仕組みはこうだ。建物の中に便槽があり、そこから木の樋(とい)が北側の沼地へ延びている。傾きは約6度。流れた先には、沼地を掘り込んだ沈殿槽がある。屋根と目隠しの塀もついていた。古代の水洗トイレで、ここまで一式そろって見つかった例はほかにない、とされている。
いまは外郭東門の外、鵜ノ木地区に復元されていて、見学できる。
決め手は、寄生虫の卵だった
誰が使っていたのか。
沈殿槽の土を分析したら、寄生虫の卵が出てきた。その中に、有鉤条虫(ゆうこうじょうちゅう)の卵があった。生か、火の通りきっていない豚肉を食べるとうつる寄生虫だという。
当時の日本人は、豚をほとんど食べていない。
つまり、このトイレを使っていたのは、豚肉を食べる食生活の人たちだった可能性が高い。すぐそばには、寺院や客館(お客をもてなす建物)と考えられる建物群がある。そこから、中国大陸の渤海(ぼっかい)という国から来た使節が使ったのではないか、という説が出ている。
うんこが、外交の記録になっていた。
渤海という国
渤海は、698年から926年まで、いまの中国東北部からロシア沿海州あたりにあった国だ。唐と新羅に挟まれていたので、海の向こうの日本と組みたかった。
使節は日本海をまっすぐ渡ってきて、その回数は34回とされる。着くのは当然、日本海側の出羽や北陸になる。
最初の使節(727年)は、蝦夷の土地に流れ着いて、多くが殺され、生き残った人たちが出羽にたどり着いた、と伝わっている。初対面から、秋田の案件だった。
積んできたのは毛皮や人参、蜂蜜。帰りは絹を持って帰った。国と国のあいさつという看板の裏で、中身はもてなしつきの交易だった。
千年以上前の秋田は、大陸からの玄関に、配管つきの迎賓館を構えていたことになる。
国は消えても、海は残った
渤海は926年に契丹に滅ぼされた。
その3年後の929年、かつて渤海の使節として2度日本に来た裴璆(はいきゅう)という人が、今度は渤海を滅ぼした側の使者として、丹後にやってくる。朝廷は「祖国を滅ぼした国に仕えて、その使いで来るとは何事か」と突き返した、と記録にある。
もう無い国に、日本の側が義理を立てた。
そして946年、大陸側の白頭山が大噴火する。その31年前の915年には、日本側の十和田火山が噴いている。どちらも山のてっぺんがカルデラ湖で、どちらにも龍の伝説がある。
渤海の使節が34回渡ったあの海は、両側を龍の火口に挟まれた水だった、ということになる。
秋田城跡は、家から車ですぐの場所にある。この話を知ってからは、まだ行っていない。行ったら、復元されたトイレの樋の傾きを、自分の目で見てくる。6度がどのくらいなのか、書いてあるだけではよく分からないので。
出典
- 秋田市 秋田城跡調査事務所「あきまろ」平成21年7月31日号(古代水洗厠舎の復元)
https://www.city.akita.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/799/h21_a4_akimaro_suisenkawaya.pdf - 秋田市「秋田城とは」
https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1003616/1002306.html - 秋田市立秋田城跡歴史資料館
https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1003616/index.html